かもめのジョナサン - リチャード・バック 翻訳:五木寛之

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かもめのジョナサン - リチャード・バック 翻訳:五木寛之
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102159010/konesweb0f-22/

より意識の高い生き方をめざし空の飛び方を追求するカモメ、ジョナサンは、その目的意識故に、群れを追放される。
そして、やはり空の飛び方を追求する別のカモメの集団と出会う。

物語は、英雄の誕生、追放、師との出逢い、成長、そして帰還という、まさに王道の流れをゆく。

米国のヒッピーの間でひそかに読まれていたものが一気に広まったというその話の図式の背景に、僕は、仏教的世界観を感じた。

誕生から追放への流れは、新しい輪廻の輪に向かうときのおきまりの流れであり、帰還し、かつての自分と同じように輪廻の狭間でもがき苦しむ仲間フレッチャーを新しい世界に誘う様や、かつての群れで布教とも言える活動を行う様は、輪廻の下の層に戻ってきて衆生の苦しみを救う菩薩の姿である。

五木寛之をして、ジョナサンの「他のカモメを見る目に、どこか私はひっかかったのだ」「食べることと、セックスが、これおど注意ぶかく排除され、偉大なるものへのあこがれが上から下へと引きつがれる形で物語れるのは一体どういうことだろう」と言わしめつつ、結局この本を翻訳させてしまった真の動機のひとつは、この本の背景にある基本的な世界観と五木寛之の持つ仏教的な世界観との調和だったのではないかと思う。

それから、五木寛之が解説の中で「大衆的な物語の真の作者は、常に民衆の集団的な無意識であって、作者はその反射鏡であるか、巫女であるにすぎない」とする件りがあり、これもまた僕の興味を誘った。
かもめのジョナサンの世界観に感じる普遍性には、ある種の安心感がある。だが、普遍性とは、いったい何だろう?
人の作品との出逢いですらも、すべてに偶然はない。物語というものは、読者である個々人が潜在意識の下に共有する集合無意識がその作者という実体に咲かせた一輪のヒナギクのようなものかもしれない。

かもめのジョナサン - リチャード・バック 翻訳:五木寛之
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久しぶりにこねこねのさいとを覗いてみたら、おもしろいブログが
始まっていてびっくりしました。
色々読まれてますね。

今は毎日英文を書くのに必死で余裕がないのですが、
(和英の充実している電子辞書をご存知ないですか?)
一段落ついたら、日本語の読書をしたいと思います。

土筆、いいですね。機会があれば是非行ってみたいと思います。

コメントありがとうございます。今後ともよろしくです!

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このブログ記事について

このページは、koneが2008年4月16日 03:48に書いたブログ記事です。

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